秋田の酒大百科


2014.01.22

美酒王国秋田の歴史(2)

藩政時代、鉱山の開発にともなって秋田県の酒造業は大きく発展しました。

鉱山とともに発展

17世紀、県北の小坂、尾去沢鉱山のほかに県南には我が国最大の銀山といわれた院内銀山がありました。慶長11年(1606年)に銀が発見されると、全国から技術者、労働者、大工、商人たちが集まって大規模な町を形成し、7,000人余りの人々が働き、周辺住民を含めると当時の佐竹藩の城下町である久保田(現 秋田市)を凌ぐ盛況をみたと伝えられています。
また院内銀山のほかにも秋田には多くの地下資源がありました。この頃には県内に400を超える鉱山があったものと推測されますが、ほとんどが現代のような機械による採掘ではなく人の労働力のみに依存していました。そのため、鉱山の規模に比べて労働者の数が多く、食糧はもちろんのこと、酒も多量に消費されました。鉱山周辺の山中では娯楽も少なく、酒はとくに必要不可欠なものであったと考えられます。こうして鉱山周辺の酒造業は繁栄し、新たな創業者もあらわれたことから、鉱山開発が秋田清酒の発展の基礎を築いた一要因であると言われています。

酒造りを保護した佐竹藩

佐竹義宣の久保田入部の慶長7年(1602年)以前の県内酒造業については明らかになっておりませんが、当時既に多くの鉱山や港町で酒役(酒税)が課されていたことが記録に残っています。
佐竹藩が幕府に提出した酒造業に関する口上書によると、藩内には700軒を超える酒屋があり、酒造りは藩の農業・鉱業等、経済の特質上欠くことのできない重要な産業と考えられていました。このため、藩が酒造業の発展のため先進銘醸地より指導者を招き、酒造りの指導や人材育成にあたらせたという記録も残っています。さらに、宝永三年(1706年)、正徳五年(1715年)に幕府から減産令が出された時は、佐竹藩が寒冷地での酒の必要性を訴え、領民に迷惑不便が及ぶとして内々に幕府の了解を得て酒造業の保護策をとるなど、酒造業が栄える基盤がありました。

酒造業経営の変遷

藩政時代の酒造業者の多くは、地主階層でした。所有する耕地の余剰米を利用して濁酒を造り始めた者が多く、蔵元自身は酒造りにあたることはほとんどなく、付近の村落から小作農民の冬季出稼ぎとして雇った杜氏や蔵人任せであったようです。酒質の改良や向上に関しては極めて消極的であったことから、明治中期から末期にかけて兼業酒造家が数多く廃業の途をたどりました。
その一方で、法人企業はまだ少なかったものの、専業として新規免許を受ける者や、法人組織に変える者も現れ、ようやく近代的企業としての発展が始まりました。
明治32年(1899年)には自家用濁酒の醸造が禁止となったことから農村市場も拡大し、また明治38年(1905年)に秋田県縦貫の国鉄奥羽本線が開通したことが県外販路拡大の大きな転機となりました。