語源については諸説ありますが、酒造りは古くは一家の主婦の仕事であり、その主婦が「刀自(とじ)」と呼ばれていたことから転じて「杜氏」になったという説が有力です。
日本酒は酒造りの専門的技術を身につけた「蔵人(くらびと)」によって造られますが、杜氏は蔵人たちの長であり、現場の最高責任者です。技術面はもとより、蔵内の統制・管理・判断能力に秀でた人格者であることが要求されるため、蔵人の誰もがいずれ杜氏になれるとは限りません。杜氏は、お酒をいたわる愛情と、組織を統制する力を備えたリーダーとして存在しているのです。
酒造りは繊細で複雑な工程がたくさんあるために高度な技を必要とします。近年はコンピュータ技術が発達して精巧な管理も可能になりましたが、最後はやはり人間の勘や経験が酒の出来栄えを左右することに変わりはありません。
明治末期から大正時代にかけて秋田の酒造業が大きく発展したことにより、酒蔵では、冬季の出稼ぎ者を多数必要としました。農家が多かった山内村(現 横手市山内)では農閑期の働き場が少なかったため、酒蔵が冬場の働き口として次第に定着していきました。農家は冬に仕事が無く、また酒蔵では仕込みをする冬だけの労働力が必要だったことから、互いの利害関係が一致していたともいえます。
各酒蔵で冬に人を雇い、技術を伝え、酒造りを任せ、各地で杜氏が育っていきました。大正時代には山内地区からの出稼ぎ者が300人前後いたといわれており、「酒屋若勢」(さかやわかぜ・今でいう蔵人)(“若勢”とは若者や青年をさす言葉)と称され、これが山内杜氏の発生につながったようです。当初は個々に雇われていましたが、作業効率の観点から杜氏が自分の部下を連れてくるケースが増え、チームを地縁、血縁で組み、技術を伝えました。
大正11年(1922年)には、杜氏の養成と技術の向上を図り、さらに蔵人を円滑に確保、供給することを目的に「山内杜氏養成組合」が設立されました。
戦時中の事業中止を経て、昭和24年(1949年)に「山内村杜氏組合」として再発足、さらに昭和34年(1959年)に「山内杜氏組合」に改称し、時代に応じた人材の育成と技術向上に取り組んでいます。
まだまだ貧しかった時代において、酒蔵の仕事は賃金も良く、憧れの職業としてこの道に入る者も多かったようです。また生計を助けるためだけではなく、徴兵検査前の人生修行を目的とする風潮もあったといわれます。酒造りには様々な役・階層があり、下積み時代には苦しいこともありましたが、努力して技術を身に付け、将来は杜氏にという夢があったからこそ、厳寒の時期に家族と離れて、朝早くから時には夜を徹しての過酷な作業にも励む事が出来たのでしょう。
このような山内杜氏たちの活躍は県内だけではなく県外にも及びました。さらに、戦前は外地での需要も高かったため、中国、韓国、樺太などへ多くの杜氏や蔵人が派遣された記録が残っています。
旧来の酒造りは手作業で、肉体的にも精神的にも厳しい環境の中で行われてきました。時代と共に機械の導入が進み、労務環境は改善されましたが、農家の減少や兼業化に加えて農業だけでの自立も進んだことから出稼ぎの必要が無くなり、酒造りの道を志す者が減りました。さらには杜氏・蔵人の高齢化も進み、酒蔵は後継者難の問題を抱え、社会情勢の変化と共に「造れば売れた時代」から「売る努力が必要な時代」へと変革の時期を迎えました。そして、酒類の多様化などからの日本酒の消費低迷により、酒蔵の数が減少し、杜氏の数も劇的に減少しました。
しかしながら、昨今では従来の杜氏集団にこだわらず、各蔵の地元からの雇用も多くなりました。米や水に加え「人」も地元産というアピールで地域の活性化に貢献する蔵も見られます。また、蔵元が自ら杜氏を務める「オーナー杜氏」も増え、さらには、20代や30代の若手や、女性の杜氏も誕生しています。かつての杜氏集団という形態は減少しましたが、酒文化の伝承は、形を変えて今も確実に続いています。